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[第一話]

-短編小説-『視線の先で』

—プロローグ

電車が揺れるたび、車内の空気が少しずつ混ざっていく。
彼は立っていた。正面の座席に、ひとりの女性が座っている。

綺麗だ。と思った。

それだけで済ませるつもりだった。



    長い髪を時折かき上げる。キツめの雰囲気。
    きれいめのジャケットに、タイトなシルエットのデニムパンツ。
    露出はないのに、所作ひとつで視線を集めてしまう。

    表情は動かず、脚を組んで座る姿勢にも迷いがない。
    周囲の視線を集めていることにも、無関心な様子。
    座っているだけなのに、空気が締まって見える。

    視線は前。周囲に興味がないというより、
    興味を向ける価値があるかどうかを選んでいるようだった。

    近づきやすさはない。むしろ、近づく理由が要らない種類の人だ。


    彼女が脚を組み替えた。

    その動きが、なぜか頭の中に残る。

    目で追った自分に気づき、すぐに視線を逸らした。

    ――よくない。

    そう思うほど、妄想は勝手に広がり、
    気がつけばまた目が吸い寄せられている。

    彼女は脚を組んだまま、つま先でパンプスを揺らし、
    視線を向ける必要すらないという態度でそこに座っている。


    静かに自分の感情が昂るのが分かる。

    立場。距離。上下。

    あり得ないはずの構図が、頭の中だけで静かに形を持つ。

    見ていない。



    なんとか気を紛らわそうと必死に見ていないふりをする。
    スマートフォンを取り出し、画面を眺める。

    反射で映るのが怖くて、角度を変える。

    それでも、意識はすぐに戻ってしまう。

    ダメだ。抑えられない。
    圧倒的なオーラを放つ彼女を前に
    外では絶対に一番奥に押し込んでいる感情が湧き上がる。


    彼女は気づいていない。
    いや。気づくはずがない。


    ただ目の前に立つ男が心の奥に隠し持つ気持ちなんて。
    知れば絶対に軽蔑される。普通の男性とは違う感情。



    「普通でないこと」を周囲に気づかれないように
    隠して毎日を過ごしてきた。

    大丈夫。気づかれるわけがない。

    そう信じたかった。


    ようやく駅に着く。

    人の流れに押され、彼は降車した。
    外の空気に触れ少しだけ気持ちも落ち着き、ほっとする。

    流れにそって何事もなかったかのように歩く。

    その瞬間、耳元で声がした。

    「……バレてるわよ。変態。」

    低く、短く、笑いはない。

    彼女は立ち止まらない――。


    すれ違いざまに残されたのは、言葉と、香水の気配だけ。


    振り返れなかった。

    振り返る資格がないと、なぜか分かっていた。

    胸の奥が、静かに締まる。
    恥ずかしさと、否定のできない高鳴りが同時に来る。

    これは偶然だ。

    ただの出来事だ。

    そう言い聞かせながら、彼は歩き出す。

    ――でも、もう分かっている。

    あの視線の先で、自分の立場は決まっていた。

    つづく。


    著者名:一色 密
    編集部|日向ネオン

    ※本作は連作小説です。
    次話は近日公開予定。

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