—プロローグ—
電車が揺れるたび、車内の空気が少しずつ混ざっていく。
彼は立っていた。正面の座席に、ひとりの女性が座っている。
綺麗だ。と思った。
それだけで済ませるつもりだった。
長い髪を時折かき上げる。キツめの雰囲気。
きれいめのジャケットに、タイトなシルエットのデニムパンツ。
露出はないのに、所作ひとつで視線を集めてしまう。
表情は動かず、脚を組んで座る姿勢にも迷いがない。
周囲の視線を集めていることにも、無関心な様子。
座っているだけなのに、空気が締まって見える。
視線は前。周囲に興味がないというより、
興味を向ける価値があるかどうかを選んでいるようだった。
近づきやすさはない。むしろ、近づく理由が要らない種類の人だ。
彼女が脚を組み替えた。
その動きが、なぜか頭の中に残る。
目で追った自分に気づき、すぐに視線を逸らした。
――よくない。
そう思うほど、妄想は勝手に広がり、
気がつけばまた目が吸い寄せられている。
彼女は脚を組んだまま、つま先でパンプスを揺らし、
視線を向ける必要すらないという態度でそこに座っている。
静かに自分の感情が昂るのが分かる。
立場。距離。上下。
あり得ないはずの構図が、頭の中だけで静かに形を持つ。
見ていない。
なんとか気を紛らわそうと必死に見ていないふりをする。
スマートフォンを取り出し、画面を眺める。
反射で映るのが怖くて、角度を変える。
それでも、意識はすぐに戻ってしまう。
ダメだ。抑えられない。
圧倒的なオーラを放つ彼女を前に
外では絶対に一番奥に押し込んでいる感情が湧き上がる。
彼女は気づいていない。
いや。気づくはずがない。
ただ目の前に立つ男が心の奥に隠し持つ気持ちなんて。
知れば絶対に軽蔑される。普通の男性とは違う感情。
「普通でないこと」を周囲に気づかれないように
隠して毎日を過ごしてきた。
大丈夫。気づかれるわけがない。
そう信じたかった。
ようやく駅に着く。
人の流れに押され、彼は降車した。
外の空気に触れ少しだけ気持ちも落ち着き、ほっとする。
流れにそって何事もなかったかのように歩く。
その瞬間、耳元で声がした。
「……バレてるわよ。変態。」
低く、短く、笑いはない。
彼女は立ち止まらない――。
すれ違いざまに残されたのは、言葉と、香水の気配だけ。
振り返れなかった。
振り返る資格がないと、なぜか分かっていた。
胸の奥が、静かに締まる。
恥ずかしさと、否定のできない高鳴りが同時に来る。
これは偶然だ。
ただの出来事だ。
そう言い聞かせながら、彼は歩き出す。
――でも、もう分かっている。
あの視線の先で、自分の立場は決まっていた。
つづく。
著者名:一色 密
編集部|日向ネオン
※本作は連作小説です。
次話は近日公開予定。

